こんにちは、Azusaです。
今日は先日私が住んでいる街で起こった刃物襲撃事件を通して、色々と思うことがあったので、そのことを書いていきます。
ジェラシュで起きた刃物襲撃事件
2019年11月6日(水)。
現在、私が住んでいるヨルダンの『ジェラシュ』という街で、刃物襲撃事件が起きました。
日本でもYahoo!ニュースのトップにて、大きく報道されていたようです。
まさか自分が住んでいる街でこのような事件が起きるだなんて、想像もしていませんでした。
逮捕された犯人について
犯人は、その場で確保され、逮捕されたとのこと。
その後、犯人に関しての情報と動機などが、現地のニュースなどで報道され始めました。
その内容を見て、事件が起きたことよりも驚くこととなります。
というのも、この犯人が私が現在働いている難民キャンプ出身の青年という内容だったのです。
※但し、現地の方いわく、ジェラシュ内にある別の難民キャンプ出身だということも言われており、定かではありません。
また動機に関して、下記のような報道も見受けられました。
アラビーヤ放送によると、容疑者は、Facebookで繋がった人たちから指示を受けて事件を起こしたという。同放送は、彼らが、容疑者に外国人観光客を攻撃するよう説得したと報じている。#ジェラシュ #ヨルダン
— JIME Center (@JIMECenter) November 7, 2019
※ 但し、ISはこの事件の関与を公表していません。
#ヨルダン の観光地 #ジェラシュ での観光客刺傷事件について、テロ組織イスラーム国ISはその週刊戦果報告の「今週のできごと」コーナーで淡々と「報道」しています。この事件に関してはISは無関係という立場のようです。
— JIME Center (@JIMECenter) November 8, 2019
- 難民キャンプ出身の青年が犯人だったこと
- 外国人観光客を狙った事件かもしれないということ
この2点、私にとっては決して他人事ではないように感じました。
飛躍しすぎかもしれないですが、自分が標的になっていた可能性もあったのではないか?と。
働いている難民キャンプについて
ジェラシュには2つの難民キャンプが存在しており、私の職場はそのうちの1つにあります。
難民キャンプとは言え、ほぼ街化しており、私もよくキャンプ内で買い物をしたり、友人や同僚のご自宅に遊びに行かせていただいています。
これまでヨルダン川西岸やガザ地区など、複数のパレスチナ難民キャンプを訪れたことがあるのですが、現在働いている難民キャンプはとても雰囲気が良いと感じています。
貧困率などがそこまで高くないのが理由なのではないかと。
…とは言え、私一人で歩くと目立ってしまうし、子供たちに囲まれてしまうので、キャンプ内を歩く際には、職場の同僚と必ず一緒に行動することを心掛けています。
そのため、以前の記事で記載したジェラシュの街中でのこと、ゴミを投げつけられたり、変な絡まれ方をすることは、キャンプ内では今のところないです。
しかし、子供や女性からジロジロ見られたり、「あー何か私のこと言ってるんだろうな」っていう雰囲気を、道行く青年たちから感じることは多々あります。
痛いほど感じる『マイノリティ感』
このように、難民キャンプ内、そしてジェラシュの街中を歩いてみると、周囲から向けられる視線で、痛いぐらい「自分はマイノリティなんだ」ということを認識させられます。
また職場の同僚たちからも、本当によくしていただいていますが、やはりどこかで「自分は外部から来た人間なんだ」ということを感じさせられることがあります。
特に今回の刃物襲撃事件。
正直外国人の私にとって、とても怖かったです。
でも、職場の方々にその恐怖は理解してもらえず、「大丈夫大丈夫!」と一言言われただけでした。
今までで一番、孤独感・マイノリティ感を感じた瞬間でした。
もともとは『マイノリティでいたい』タイプ
もともとの私は、どちらかと言うと『マイノリティでいたい』タイプ。
海外だからこそ…ではなく、日本にいてもそうです。
例えば、大人数がいる環境だったら、日本人は私だけがいいし、同い年は私だけがいいし、女性は私だけがいい…という感じです。
※ これは私が極度の人見知り、且つ自分に自信がない人間なので、存在意義をマイノリティでいる方が出せるから…という、なんともどうしようもない理由からなんですけど。
また、これまで海外に住んでいた経験もありましたが、マイノリティでいることをあまり苦と思わないタイプだと思っていました。
しかし、今回ヨルダンに住んでみて、これまで経験してきたことだったり、私が好んでいたことって、本当のマイノリティではなかったんだな…と感じるようになりました。
そもそも言葉が通じる、文化が一緒…という時点でマイノリティではなかったんだと。
またNYに留学していたこともありましたが、アジア人はたくさんいるし、近い距離に日本人がいる環境でしたし、そもそもNY自体が外国人に寛容な街だったから、マイノリティではなかったなと。
ヨルダンに来て、そしてジェラシュという街に住み、難民キャンプに根を張る生活をしてみて、『本当のマイノリティって想像以上に辛いんだ』ということを初めて知ったのです。
全てとは言わない。少しでいいから『理解』してほしい
先日、現在行っている新規プログラム立案に向けたアンケート調査の集計をしていた際に、うちの施設に出入りしている少しだけ英語が話せる女性が、手書きのアラビア語の解読を手伝ってくれました。
そのとき、ふと彼女が私にこう質問してきました。
「アラビア語はどれくらい勉強してきたの?」と。
「日本でフスハー(正則アラビア語)を2ヶ月半やって、アンマンで1ヶ月半アンミーヤ(ヨルダン方言)を勉強して、それで9月にここに来たよ。」
と、私が返答すると、彼女はとても驚いた顔をして、こう言ってくれたのです。
「え?!それだけだったの?!もっと長い期間勉強してるんだと思ってた!それでこんなに分かるのすごいねー!素晴らしい!アラビア語って一番難しい言語なのに!」と。
この言葉が、心から嬉しくて。
これまで『なんで話せないの?』みたいな態度を取られることが多かったので、思わず泣きそうになってしまったのです。
また別の友人や、知り合いからも「ジェラシュに住むの大変でしょ」って言ってもらったり、少しでも「あー分かる分かる!」という反応をしてもらえると、『あぁ…受け入れてもらっている…共感してくれている…理解してくれている…嬉しい…』という気持ちになることが多いです。
これまで以上に、そのような言葉に励まされる瞬間が増えたなと感じています。
全てとは言いません。
ただ、ほんの少しでいいから、理解してほしいんです。共感してほしいんです。
マイノリティにとって、『理解』『共感』がこんなにも心強いものなんだと認識させられました。
『理解してほしい』という気持ちはエゴなのでは?
しかし、「少しでいいから、理解してほしい」と思う反面、『そう思うのは私のエゴなのでは?』と思う気持ちもあって。
相手からしてみれば、突然日本人なのか中国人なのか韓国人なのか分からない、どこぞのアジア人の若い姉ちゃんが来て、「理解してほしいの~~~!」とか言い出したら、『いや知らんがな…』ってなるよなぁと。
結局は『対話』をしていくことが大事
とは言え、泣き寝入りをしたり、『まぁ分かってもらえないよね。』と自分さえ我慢すれば良いという考えも何か違う。
この自分さえ我慢すれば良いというのは、相手の新たな気付きの機会を奪ってしまうことになってしまうと。
きっと彼らの周りにも、私が知らないだけで、私が見えていないだけで、何らかのマイノリティな人たちがいるかもしれない。
私が自分が感じたことをシェアして、対話していけば、将来彼らがマイノリティな人たちに会ったとき、身近にいるマイノリティな人たちと話すとき、より良い関係を築くことができるかもしれない。
相手の立場に立って、考えることができる人になれるかもしれない。
そう思えば、今自分が感じている辛さも、意味があることなのかもと思えるようになりました。
※ 正直なところ、青年たちの外国人(特に女性)に対する視線や態度は、『対話』とかだけじゃ響かないかもしれない…とも思うんですけど。
※ そもそも、こちらが少しでも反抗する素振りを見せたり、反論したりするだけで、さらに馬鹿にするような態度をとってくるので。
※ 『自分が同じことされたらどう思うか』ということを考えてほしいものですが…。
※ それよりも『自分の母親や姉妹が同じことをされたらどう思うか』とかの方が響くのかな…?
今度は私が『理解』していきたい
…なんともまぁまとまっていない文章を、つらつらと書いてしまいました…。
まだヨルダンに数ヶ月しか経っていないので、恐らくこのマイノリティ周りのことは、これからも突き付けられるものだと思っています。
ただ現時点では、私自身が『理解』『共感』の言葉をかけられるような人間になりたい…というのが、私の正直な気持ちです。
いつかそのような方々に出会う機会があったら、そのような場面に遭遇する機会があったら、この辛さを知る人間であるからこそ、かけられる言葉があるのかなと。
今度は私の番ですね。そんな人になりたいです。
Azusa
ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします!
↓↓↓